「平常性のジャーナリズム」時代のメディア学
マスメディアの権力との癒着や報道倫理の問題が取り沙汰されると、ジャーナリズムにおける危機や課題をめぐって議論がなされることがあります。近年は、YouTubeなど動画共有サービスやNetflixなど動画配信サービスが既存のマスメディアの領域を侵食することで、組織としてのマスメディア・ジャーナリズムの立地は狭まり続けています。
ところがジャーナリズムの根源的な危機は、組織内部の不祥事やメディア環境の変化がもたらす新聞・放送の衰退に由来するのではありません。ソーシャルメディアをとおしてこれまで情報の受け手であった市民が自ら発信することにより、意味を生産する主体がマスメディアだけではなくなりました。伝統的なジャーナリズムの概念が、逆説的に誰もが情報発信できる「言論・表現空間の民主化」によって揺らぐことにより、ジャーナリズムを論じることの根底的な問い直しを迫られているのです。
「言論・表現空間の民主化」の連鎖反応として到来した「ポスト真実」の時代に、ジャーナリズムの流動化と多様化は決定的になりました。ジャーナリズムが真実を伝えることを使命とするならば、「真実」のあり方そのものが変わることで、必然的にジャーナリズムの意義もあらためて問われなければなりません。
主流派の政治に反発して台頭するポピュリズムの政治は、「民主的な言論・表現空間」を温床としています。したがって、民主主義が機能不全に陥り共同社会が分裂する葛藤に満ちた政治において、客観主義報道に固執する従来のジャーナリズムの理想だけでは太刀打ちできないでしょう。民主主義の外部ではなく、その「内なる敵」としてのポピュリズムに対抗するためにも、表現活動が平常の生活のなかに浸透し現実化している「平常性のジャーナリズム」を見据えた新たな情報コミュニケーション関係に備えなえければなりません。
ジャーナリズム研究者の林香里は、言論の自由という基本的権利を基盤に、権力の監視をして、不偏不党、中立公正を貫き、「正義の原理」とともに動くジャーナリズムの理想とは異なる「もう一つのジャーナリズム」を提示します。「ケアの倫理」というポスト・リベラルの理論を導入して、「偏向性」をいとわず社会的弱者に手を差し伸べるジャーナリズムの倫理を提唱するのです(林香里『〈オンナ・コドモ〉のジャーナリズム』岩波書店、2011年)。
2022年は、安倍晋三元首相の銃撃事件や社会的発言を活発に行う大学教員に対する襲撃事件に見られるように、言論の自由を脅かす極端な行為が相次ぎました。これらの事件について、マスメディアは「暴力をもって言論を封殺してはならない」とする断固とした姿勢を示しています。しかしマスメディアが信頼を失う一方、誰もが情報発信できる状況で、意見の違う相手に対して暴力をもって排斥する憎悪は、在日コリアンが多く暮らす宇治ウトロ地区放火事件や大阪コリア国際学園放火事件のようなヘイトクライムとも地続きであるはずです。ところが、これらの事件について民主主義の土台を破壊することへの危機感はメディア報道ではあまりにも鈍いのではないでしょうか。
ここ十数年にわたりヘイトスピーチが横行したことが、これらの事件の社会的背景にあるにもかかわらず、ヘイトスピーチを規制することについてジャーナリズムは、「表現の自由」を根拠に反差別や反ヘイトへの明確な価値判断を示してこなかったといえます。公共性が基本的に権力の属性と考えられている日本では、公共空間での議論が、国家権力の行使を社会共通の利益として拘束できるということに疑いの余地はありません。したがって、自らが真と考えることを積極的に認める「表現の自由」も、市民が自由に議論をたたかわせることから公共性が生まれることへの信念に基づき幅広く保障されています。
とはいえ、自らが真実と考えることがファクトとして成立するか否かよりも、それを保障することが民主主義の核心的価値とされる「客観中立」は差別に無力です。林香里がマスメディア・ジャーナリズムの職業倫理を相対化する概念として、権力監視など公共性を重視する"正義"に、親密性に根差して社会的弱者に寄り添う"ケア"を対峙させたのも、公共圏のみの政治観にとらわれたジャーナリズムの世界に安住せず、互いの絶望的異質性を確認させられる「共約不可能」に公的な性格を付与することで「共約可能性」へと転換させるためです。
「民主的な言論・表現空間」で個人のアイデンティティや文化的ダイナミズムが構築されていく親密圏のプロセスを突き動かすのは「語り」です。ネット上で集めたデマをもとに憎悪感情を募らせたウトロ地区放火事件の容疑者に対して、現地のコリアンは「お酒でも飲みながら触れ合ってみたらよかった」と語りました。これこそが「ヤフコメ民をヒートアップさせたかった」というその犯行動機に立ち向かう力強いメッセージとなるはずですが、その声はあまりにも弱い。ヘイトスピーチとして認定された「表現」についてジャーナリズムが社会的弱者に寄り添う姿勢を示さない時、ポピュリズムの政治はますます社会の分裂を加速させるでしょう。
閉塞感に覆われた社会で不満の捌け口を異質な他者に向けると、それは増悪表現としてあらわれます。ヘイトスピーチには、日本がかつて植民地支配したアジアの国々との関係が投影されています。これらの国々との歴史対立を超えた新しい関係の構築に向けて、東アジアでは互いに共感できる物語をいかにして生起させることができるのでしょうか。それには東アジアという地域に根ざした越境するジャーナリズムの役割が求められます。そのためにも「平常性のジャーナリズム」を見据えたメディア学のさまざまな試みをとおして、何かしらの方法を模索していかなければなりません。
東アジアメディア研究センターも微力ながらそうした役割の一端を担っていきます。
2023年3月
東アジアメディア研究センター・センター長 玄 武岩
(北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 教授)